群青

ultramarine.

渚にて 03/04/08


渚は凪いでいた。

私はステッキに両手をかさねて、目を細めながら夜の海をしばらく眺めた。大潮で海面は高く、細波のひとつひとつが月光を反射している。ふたたび歩き出すと満月もゆっくりと後をついてきた。蒼白の光が私と愛犬の影をアスファルトに揺らしている。ステッキの音がコツリコツリと響く。長年連れそってきた私の足はかなり弱ってきていた。きっと時代の流れとともに進むことに疲れてしまったのかもしれない。ヒューイは私の足を知ってか知らずか、歩調をあわせ私の前をとぼとぼと歩く。それとも彼が私に劣らない老犬だからだろうか?仕事を後進の者にまかせ、海を眺めて暮らすようになって久しい。私にとって大切なものは、海と、深夜のヒューイとの散歩、それに思い出だけだ。

もう何年も前のこと。眠っているような生活に嫌気がさし、すべてを捨て故郷を飛び出したのもこんな満月の晩だった。外の世界には何があるのか、自分には何ができるのか、その可能性が知りたかった。初めて見る都会の圧倒的な広さ、高さ。ひしめき合う人々とその街並み。ひとつひとつの窓の明かりの中にはそれぞれの団欒と競争がある。そんな都会で、ハンデキャップのあった私は懸命に働き、また人生を楽しんだ。ささやかながら成功もしたが、それももう過去の話だ。

波音は重く静かだが絶え間なく続いていた。道路わきに海岸へ下りてゆく石段がある。私とヒューイは足もとを確かめるように、砂だらけの階段を踏みしめて下りた。潮の香りが風に乗って顔をなでる。月明かりに照らされたシーズンオフの砂浜は、人の足跡もなく風紋だけが自然の絵筆で描かれている。私はその作品を壊さないように、なるべく足を引きずらないように海に向かった。

ふと、ヒューイが顔を上げた。しばらく風に鼻先を動かしていたが、やがて振り向くと尋ねるような視線を私によこした。そちらを見ると海辺に人がいる。遠目にはわからないが小柄な女性のようだ。白いドレスを身につけ長い黒髪が風にそよいでいる。人影は海に向かって、じっと座り込んでいるようだった。

(観光客だろうか?)

私は後ろを振りかえり、道路を挟んで建つシーサイドホテルを見上げた。ほとんどの窓は灯りが落ち、建物のシルエットが星空を黒く切り取っている。

私は少し考えたが彼女の方に歩いていった。ヒューイはそれを”許可”と受取ったのか、普段見せない脚力で砂を蹴って走ってゆく。すぐに彼女に近づくと肩のあたりに鼻をつけ、また私の方を見た。彼女は足を抱えるように座り、ひざに顔を伏せていた。細い腕はまだ少女のものだった。眠っているのか、ヒューイが近づいても動かない。髪もドレスも濡れたように月の光を映していた。白く見えたドレスは、よく見ると銀色の細かい装飾がされ、まるで肌にすいついているようにぴったりとしていた。4月とはいえ夜はまだ冷え込む。肩も広くあいた背中も、とても寒そうだった。

私は短く口笛を吹いてヒューイに”戻れ”の合図を送った。その音に彼女はハッと顔を上げ振り向いた。私は右手で帽子を少し上げて、会釈とも謝罪ともとれないしぐさをした。すると彼女の丸く見開いた瞳は、やがて笑みに変わり、風に乱れた髪を後ろ手でまとめ右肩にまわすと、まっすぐにこちらを向いた。満月が蒼く明るく彼女を照らす。一瞬波音が途絶えた。

私はめまいがしていた。ブラウンがかった瞳にバラの花のような小さな唇。なによりその髪をさわるしぐさ。私はこの少女を知っている。遥か昔から知っている。私は立ち尽くし、彼女はひざを抱え座ったまま見上げていた。どうしても視線がはずせなかった。黒くうねる波と満月をバックに私を見つめる少女。この時、私はすべてを理解した。彼女の唇がかすかに開き何かを伝えようとする。私は人差し指を自分の唇にあてると、それをゆっくりと左右に振り手を差しのべた。彼女はうなずくと同じように右手をあげ、私の指先をそっとつかんだ。

今の私たちに声はない。人間になるために人魚はふたつのものを失う。声と永遠の命、不老不死の力を。もともと、人魚は互いの手や体を触れ合うことで意思や感情を伝えることができる。海の底では、あまり声など必要ではない。しかし、不老不死は違う。私は人間になって老いたが、彼女は私の思い出の中の、あの日のままの姿でここにいる。満月の夜に一度だけ有効な魔法をかけて、私が海の故郷とともに捨ててきた恋人。それがこの少女なのだ。

彼女の冷たい指先から思いが流れ込んでくる。

(逢いたかったわ。ずっと・・・。あんまり逢いたいんで人間になっちゃった。)
(君を残していった私を許すのか?それに私は老いた。)
(海の底じゃ、待ったのなんて一瞬よ。その白い髪だってステキだわ。)

私は彼女を抱きしめ、言葉にできない思いを感謝をあるだけの愛を体で伝えた。

いつしか夜は明けはじめていた。金色に輝く水面の反射が、彼女のシルエットにライスシャワーのように降りそそいでいる。

(一緒に暮らそう。)
そう伝えると私は立ち上がって彼女の手をとった。

(彼も一緒ね?)

眠ってしまったヒューイに向かって、彼女は短く口笛を吹いた。ヒューイは大きくのびをしてとぼとぼと向かってくる。

にっこりと微笑みながら、つないだ手から彼女が言う。
(私ね、歩くの今日が初めてなの。)

二人と一匹は朝焼けの波打ちぎわを、ひときわゆっくりと歩いていった。

 

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